「快を求め不快を避ける」先日読んだ本の一節です。
人間"快"をつい求めちゃって、無意識に"不快"を避けますよね。
この"快"と"不快"は、人によって違います。
いや、その人にとって、"快"が"不快"になることも、"不快"が"快"に変わることよくあることです。
例えば、子供の宿題。
宿題が不快で、ゲームが快なんです。単純に言うと。
でも、宿題をやらないで学校行くことを異様に気にする子は、宿題に頭の中がとらわれて"不快"でもやるでしょ。
他にもその日のテストで算数で100点とって、周りから注目を浴びて、そして家でも褒められたら、ゲームやるより、"快"は少ないかもしれませんが、算数の宿題やりがちですよね(笑)
ゲームで友達に負けて、悔しい以上に怒りが沸いたり、一緒にやってる友達が異様に気に食わなくなったりしたら、その場は、ゲームもうやらない!になりますよね。
そんな時、「いいもんね、俺にはこれがあるから!」と言いがちになります。そして、その"これがあるから"が勉強だったら親はいうことなしですよね(笑)
でも、また、ゲームやるんですけどね(笑)
こうやって人の感情は、"快"に振れたり"不快"に振れたりします。
できれば、その場の感情で振れるのではなく、想像力を持ってほしいですよね。(先にも書きましたが)
想像力を持てば(先を見越す)、"不快"も乗り越えられるし、"快"もやることを我慢できるんです。
簡単な例は、受験。
ゲームやりたいけど、受験があるから"快"であるゲームを我慢して、"不快"である勉強をするんです。
そして目標を持って受験対策する、ようはこの高校に行きたい!と言う目標がある。もしくは、いい高校に入りたいから勉強してたんだけど、目標としてる高校以上に成績が伸びたらどうでしょう。
"快"が勉強とはなかなかなりませんが、ゲームは"不快"となるでしょう。
だって、そんな気持ちの子が勉強する時間にゲームやったら落ち着いてできないでしょ。
そして、中には、勉強することが"快"になる子も出てきます。
こうやって先のことを具体的に想像できたら、"不快"も乗り越えられるし、目の前の"快"も我慢できるんじゃないかな。そう言う仮説を持って、これから指導にあたろうと思います。子供には想像力をもっと広げて、現実的な先を見越せるような指導をしていきたいと思ってます。
ってなことをこの間、グラウンドで保護者に伝えたんだけど、伝わってるかな?
伝わってるといいけど。
話自体、聞いてない人もいたからなー。
そう言う話聞かない輩がいるんだよね。チームの方針みたいなことなのに。
それでよくコーチって言えるよな
保護者はみーんな聞いてくれたからいいか
えへっ(笑)